オリンピック公園

夢村土城

 夢村土城



夢村土城はソウル市松坡区 オリンピック公園内にあります。
北には風納土城(史跡第11号)と阿且山城(史跡第234号)、東にはニ聖山城と南漢山城(史跡第57号)、西は石村洞古墳、可楽洞古墳などで囲まれ、地理的に外敵の防御に非常に有利な位置である地域です。 夢村土城は漢江支流にあたり、標高44.8mの野山を中心に自然丘陵を利用し、その上に泥を積んで城壁を作りました。特に北壁の段を成した部分には木の垣根を立て、城の外側に堀を作りました。この城は北方から攻め寄る敵を防御する仕組みが特徴です。城の内部から家の跡地?墓?保存穴などと共に百済土器.武器.釣り針.石臼など各種遺物が出土され、百済時代の研究の貴重な資料になると言われています。



 夢村歴史観



オリンピック公園北2門から夢村土城の方へ少し上がった所にある夢村歴史館は百済文化の代表的な遺物と遺跡を一目にできる所で、多くの方がご存知のように、夢村土城は漢城時代百済の主要巨城の一つで、去る83年から89年まで6回の精密調査を経て穴蔵の跡と保存穴、土器など物々しい遺物が発掘されました。
このとき発見された先祖の痕跡がありありと残っている所がまさに夢村歴史館です。一歩足を踏み入れると岩寺洞と明逸洞、駅三洞など漢江流域で活躍した漢城百済時代の穴蔵と古墳模型が人目を引くが、どこからか漂う百済の香りを追うといつの間にか夢村土城遺物館。中央には夢村土城の模型があり、その周りをぐるりと取り囲んだ様々な土器と砥石、垂れ網などが当時の様子を物語っています。
また、模型ではあるが公州と扶余で出土された化石と各種装身具、金銅の履き物、そして弥勒半跏思惟像、七支刀など、日本に渡った百済遺物をくまなく観察できます。夢村土城で発掘された百済時代の住居をそのまま保存した百済竪穴地は建物の外観から穴蔵の跡を真似て作り、入口に入ると突然先史時代に戻った印象を受けます。



 コムマルダリ



この橋は元来夢村橋と呼ばれており、夢村は韓国語で"クムマウル"です。
"コムマル"は夢村の古語で、1986年3月のソウル市地名委員会での橋脚名称制定の際、純粋で美しい韓国語を復旧するため"コムマルダリ"と名付けた。



 夢村土城木柵



韓国の木柵は初期鉄器時代から朝鮮時代に至るまで、長い間敵を防御する手段として使われた。木柵は単純に木柵だけで設置した木柵城があり、夢村土城のように土城壁上に木柵を設置した城がある。 夢村土城の木柵は、1983~1988年にソウル大学校博物館で発掘調査した結果木柵の位置が確認されたが、生土岩盤層に1.8m間隔で直径30~40cm、長さ30~90cmの穴を掘り大木で柱を建て、柱と柱の間に補助柱を建てたものだ。木柵の高さは、正確ではないが2m以上と推定される。この木柵は発掘調査された元来の木柵柱の位置に沿ってその上に推定復元したものだ。



 穴蔵の跡



合計6回に渡り精密発掘調査を実施した結果、4軒の地上建物及び12個の穴蔵の跡が発見された。この穴蔵は海抜25m以上の高い地帯に位置している。これらは平面形態と深さにより3つの形式に分けられる。
一つ目は、丘陵上の傾斜面をL字型に掘って作ったもので、これが最も多い。
二つ目は、竪穴の平面形態が長方形のもので、当時の地面から1m程度掘って作ったもので、このような形態の穴蔵内では主に馬の骨や鉄製の武器類が出土され、一般生活の家ではなく軍事と係わる特殊な用途に使用されたものと思われる。三つ目の形態の穴蔵は、平面六角形の建物地で、六角形の短い辺が出会う地点(東南方向)に出入り施設を作っている。各壁の長さは6mほどで、短い壁は4mほどである。長い壁には柱穴が10個ずつあり、各柱穴の間隔は50cm程度だ。また、短い壁にも4~5個の柱穴があり、柱穴の大きさは20~30cmほどが一般的で、角の場合には重みを受けるのでより大きい傾向がある。穴蔵内部には別途の施設は見られないが、穴蔵北東の角からオンドル形の炭火を使う大きなかまどが見つかった。ここに展示されている4つの穴蔵跡のうち、1号は平面が長方形の二番目の形式や、これが廃棄された後、2号住居地の築造により多くの部分が削られた状態だ。3、4号住居地は典型的な六角形の住居で、やはり同様に3号住居地が廃棄された後、東側に少し移動し4号住居地を築造した。



 保護樹



 530年になるソウル市の木 (銀杏) : 夢村土城北丘

 430年になる松坡区の木 (けやき) : 野外造形館近隣

The Person in Charge
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